ロジバン文の意義は、自然言語の構文の曖昧さと比較するところで認識される。たとえば、以下は日本国憲法序文からの日本語文の引用である:
バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
主語「われら」にたいする述語は末尾の「信ずる」だが、その途上にまず「無視してはならない」という別の述語が介在しており、また他の語句や読点による不規則的な区分がそこに交わってくるかたちで文の構造と意味関係がやや煩雑となっている。そこでは、パーサなどが「われらは?無視してはならない」と「政治道徳の法則は?と信ずる」という誤った区分に基づく解析をしてしまうことを免れるのが困難となっている。これを自然言語の曖昧さという。このような曖昧性の壁を通過して文の真意を推しはかるには一定の抽象化(たとえば「われら」と「無視してはならない」の間にある文法的引力を意図的に看過しながら文末の「信ずる」を結びとして優先し、これを受け取ったところで前半の節を参照しなおす過程)が要されるが、読み手はそれと引き換えに論理の直接性にたいする一定の認識を犠牲にすることとなる。ロジバンの統語論は、自然言語にみられる文法上のこのような多義性を根本から回避している。また、上記のような長文の記述においては、統語論的一貫性を維持しながら語順を自在に変化させて認知言語学の観点で“易しい”表現を模索することができる。曖昧でない構文はまたコンピュータにとっても扱いやすい記述につながり、この形式言語的な性格からロジバンはプログラミング言語の一つとしても使用できるという潜在性を持っている(ロジバン用のコンパイラが現在存在するわけではない)。
ロジバン文の中核をなすのは、事物と事物との関係を表す selbri である。
do mamta mi
do patfu mi
この二つの表現の差は、{do} と {mi} とがどういう関係にあるのかを表す selbri {mamta} と {patfu} の違いにある。 selbri によって取り結ばれている {do} や {mi} は terbri であり、 selbri と terbri のまとまりが bridi である(つまり {do mamta mi} というまとまりは一つの bridi である)。 selbri は全て、どのような terbri をどのように取り結ぶのかについて公式に定義されている。これを place structure (以下 PS ) という。 mamta と patfu は異なる PS を有する。 PS の違いが命題の違いを成す。或るロジバン文を理解するということは、どの terbri がどの selbri の PS によって取り結ばれているのかを把握することである。取り結ばれ方は非曖昧であり、文法を会得している者の間では bridi は全て正しく一貫して解析される。
lo ti mamta cu mamta lo ta mamta
{mamta} という言葉が三つ登場しているが、そのうちの一つが主要の selbri である。他の読み方はなされえない。相応の知識を身につけた話者には次のように認識される:
つまり中央の {mamta} がメインの selbri で、他の {mamta} は terbri の一部であるということ。
ロジバンの構文は形式的だが、その表現能力にはひじょうに柔軟なところがある。西洋言語における文法概念との比較においてしばしば取り上げられる「象は鼻が長い」という日本語の題述構造の文は、ロジバンにおいて次のように忠実に再現される:
{lo xanto} (象)を話題として {zo'u} が区切り、続いて terbri {lo nazbi} が selbri {clani} と結びつく。 {cu} は terbri と selbri の区切を示す。この区切が無いと、1) {nazbi} は {clani} に流れて {nazbi clani} という一つの selbri をまず形成する、2) これを冠詞 {lo} が取り込んで terbri 化する、3) 結果、この文から selbri が消失する。
(terbri は原理的に sumti である。ここでは bridi の部品として捉えているので terbri と呼んでいる。 sumti は項として扱えるもの全般を指すのにたいして terbri はもっぱら selbri が取る項すなわち bridi を作り上げる項を狭義的に指す。)
ちなみに英語の「Elephants have long noses.」は次のように再現される:
loi xanto cu ponse loi clani nazbi
terbri selbri terbri
selbri が替わるほか、 terbri が二つになる。
上の二例を折衷するかたちでより一般的なロジバン表現に書き換えると次のようになる:
あえて日本語に訳し返せば「象は鼻長である」といった趣に近い。ここでは terbri は {lo xanto} 一つであり、これが selbri {nazbi clani} と結びついている。
命題の生成には関与しないところで感情や態度を表すことができる。これには ma'ovla の一種 cnima'o を用いる。
文の論理性に寄与しないことから cnima'o の文法空間 cnipau は基本的に li'erpau と bridi から独立していると考えられる。それでも cnima'o が形容するのはあくまで文の特定の内容物であり、実際の文面ではしばしば基本の垣根を越えて li'erpau や bridi 中に入り込むことになる。上の例では文の頭に置かれているので右方向に文全体を形容している。 {loi pendo cu klama} (友達が来る)という事象全体について {.ui} で嬉しさを表している。文頭以外では形容が左向きとなる:
前者三段は日本語の「友達」一語では解析できないレベルでの嬉しさの対象の微妙な違いを表し分けている。後者は「来る」という事象についての嬉しさを表している。このように cnima'o の参照範囲は常に明確である。また必要があれば参照範囲は特定の処方によって自由に拡張させられる。
語順は自由に変えることができる。要となる観点は PS である:
x1 x2 x3 x4 は selbri {ciska} の PS の変数項である。それぞれに {mi} {ra} {ti} {ta} という terbri が収まっている。「私は・あれを・ここに・あれで、書く」という日本語表現の語順すなわち SOCV をそのまま反映させた形となっている。厳密にはロジバンの selbri は動詞でも形容詞でもなく、また terbri は主語でも目的語でもないので、 S や O や V とのアナロジーはあくまで擬似的なものでしかない。英語の SVOC を模せば次のようになる:
selbri の位置を移すだけでなく、 terbri 同士を入れ換えることもできる:
結果として如何なる言語の訳においても本来の語順を正しく反映させることができるようになっている。
先ほどはあった {cu} がこれらの例に無いのは、 {mi} {ra} {ti} {ta} といったものがここではそれぞれ terbri としてしか解釈しえないので selbri との区切を明示する必要がないからである。このように、構文上の要素の境界を示すために用意されている境界詞は条件に応じて省略されうる。言い換えれば、解析上の曖昧さが危惧される場合には相応の境界詞で対処する。これらによって解決できない構文の曖昧性は実質的に無い。
一般の言語では文の境界を句点や終止符で示す。これは書言葉の産物であり、口言葉における直の対応音声を持たない。たとえば「僕は町に行く。君が僕を待っている。」における二つの句点(。)は音声化されない。文が分かれていることはイントネーションによって漠然と示される。一方、言文の一致が徹底されているロジバンでは、文の区切を無音の記号ではなく有音の言葉で表す:
/i/ の前の点は音韻論上のものであり、これ自体が文の区切を示しているわけではないことにまず注意されたい。
文の接続を意味するものなので、文の間だけに置く。英語の終止符などと違い、文が続かない場合には必要とされない。このことから、「以上/完」よりも「そして」という語感を帯びやすいが、もっぱら論理的な「そして/AND」や時間的な「そして/THEN」を表す言葉は別に用意されている。
文の繋がりに論理性や時間性などを含める処方としてまず相応の言葉をそのまま {i} と組み合わせるものがある
項右項とある接続部のうちの一つを出したあとに接続を開始することからこの例は後見接続(afterthought connective)と呼ばれる。
両接続部よりもまず先に接続の言葉を出しておくという用法もある:
これは先見接続(forethought connective)と呼ばれる。 {i} が併用されていないが、接続されているものは文である。
ロジバンは、先立つジェームズ・クック・ブラウンが開発したログランから派生した。両者の主な違いは語彙にある。ブラウンがログランの文法を幾度となく改変していたところ、一部の者達がこれを見限り、ログランの総括を独自に進めようとした。そのおり、元来の語彙について草案者であるブラウン自身が著作権を主張したので、分裂派は語根をゼロから創りなおすことにした。これが現在のロジバンの gismu の発端である。係争は法廷にてブラウンの主張が却下されるという結果になるが、その時点で gismu 開発が一通り実を結んでいたので、分裂派はこれを自分達のログラン解釈あらためロジバンの正規の語根とするにいたった(LLG もここに結成される)。LLG 自身はこれをログランからの決別とは捉えておらず、むしろログランの真価を発揮させるためのプロジェクトとしてみている。「Lojban: A realization of Loglan」という標語からもその姿勢が明らかである。
この新しい語根群、gismu は、ログランと同様、異なる自然言語から採取された言葉を融合することで作られた。ロジバンではさらに各言語の話者数を“重み”としてアルゴリズムに加えており、このことがログランとロジバンの語音の差異に大きく影響した。たとえば「標準・規範」を意味するログラン語は「norma」だが、ロジバンでは英語など他の源泉語にたいする中国語の比重が大きいため「常/cháng」の構成音が有力となり「cnano」が生まれた。また、ログランの各文法概念には英語・ラテン語・ギリシャ語などの自然言語の言葉が当てられていたのにたいし、ロジバンでは独自に内部由来の用語が編み出された。例: primitives/gismu、lexeme/selma'o、little words/cmavo、metaphor/tanru、borrowing/fu'ivla 。
ログランとロジバンは同じ文法思想を汲んでいる。具体的な違いとしては、ロジバンの設計が yacc に沿っていること、プリプロセッサの記法を取り入れていること、などが挙げられる。また、ログランにおける q と w はそれぞれ k と u- の同音異字としてロジバンでは削除された。形態論上の認識のしやすさから h は ' (アポストロフィー)に置き換えられた。ロジバンの音素配列体系がログランのそれよりも厳密に設計されていることにも注目されたい。
ちなみにログラン由来の仲間として、もっぱら中国語に影響を受けた Ceqli や Gua/spi、Visual Basic や速記法にヒントを得た Lojsk などがある。
比較: エスペラント
ロジバン話者の総数は、正確な測定が不可能にせよ、エスペラントのそれよりも少ないということが両者の普及活動の規模の差からうかがえる。ロジバンの意義は、国際補助語としてではなく言語そのものとしての完成度の点で観るときに認められる。エスペラントの特徴には、
大規模な普及活動に基づく大きなコミュニティ、多くの施設とネイティヴ・スピーカー
長い歴史にわたって蓄えられた豊富な文学
というものがまずある。“易しくて中立的な言語”と標榜されることもあるが、これは西洋言語を母語とする者の観点に端を発しており、たとえばアラビア語や中国語の母語話者から観ればエスペラントの文法と語彙は英語のそれと同様に異質なものとなる。中立性についてロジバンと比較した際には次のような対照が浮き彫りとなる:
エスペラントの語彙の大半が西欧系語派の由来であるのにたいし、ロジバンの語根はより多様な語派を源泉としている。
エスペラントの文法がもっぱらロマンス語派に基づいているのにたいし、ロジバンの文法は文化的傾倒のない述語論理を基盤としている。
エスペラントの構文が自然言語の面影を残しておりパーサで処理するのが困難であるのにたいし、ロジバンの文章はその構文規則の明快さから解析が容易となっている。つまり人間のみならずコンピュータにとっても読みやすい。
エスペラントでは屈折や造語法が性差別的であるのにたいし、ロジバンの形態論はそのような文化特有的な性意識から解放されている。
エスペラントはその特殊な文字のために多くのコンピュータにとって入力の準備に手間がかかるが、ロジバンはどのようなキーボードからでも入力できる。
エスペラント文法における約束事の数はロジバンのそれよりも少なく、この点でエスペラントはロジバンよりも学習の荷が小さいといえる。文法の軽量さはまた表現力の限界をもたらし、この点では前者よりも後者のほうが多様な事物事象の記述に対応できるといえる。また学習の荷の大きさは、裏をかえせば学ぶ事柄・発見する事柄の多さを意味する。
以上のような相違は、両者の設計思想の違いによるところがある。エスペラントは、いずれはフランス語や英語やスペイン語にとってかわる国際語として多数の人に話されることを目指して創られた。一方でロジバンは、言語そのものの本質や可能性、そしてそれらと人間個人の意識や思考との関わりを主眼に置いている。また、もともとエスペラントは当時未発達であった言語学やプログラミング学の恩恵を蒙ることができずに草案されたため、結果として設計部分の多くが現代の基準や需要に合わないものとなっている。ロジバンの誕生は、偶然にもエスペラントが発表されたちょうど100年後に当たる。この間に言語に関する知識は大きく革新し、その潮流の中でログランすなわちロジバンの前身が生まれた。既存の国際語を別なものに置き換えるという挑戦のうえにあっていくらかの宗教性を巻き込むことになったエスペラント運動の一方で、ログランとロジバンは人間が使える言語としての機能性の高さを求める言語学者とプログラミング学者達によって支えられてきた。それでも初期のロジバンの開発者の多くはエスペラント話者でもあり、両コミュニティの間に接点がまったく無かったわけではない。ロジバンのコミュニティは開発当初から Usenet 等のコンピュータネットワークを基盤としており、そのことからかつては geek (コンピュータマニア)の趣味とみなされることもあった。しかしインターネットがごく一般化した現在ではロジバンの学習者層は多様化しつつある。
比較: 日本語
言語学的にみてロジバンは無系統である。しかし、同様に孤立した言語とみなされる日本語との間にいくつかの共通点を見出すことができる。
三上章の研究によると、日本語は述語が中心となって主語・目的語・補語をまとめる題目述部の構造にあるという。名詞はそれぞれ格助詞を有するが、英語ほどに能動・受動の関係は強くはない。これは、文法的に対等な terbri を selbri が束ねるというロジバンの構造とよく似ている。「象は私が餌をやります」の「象は」といった話題もロジバンでは忠実に表現できる。
日本語では単数と複数の区別が必須ではない。この「通数」の原理がロジバンにもある。「lo lorxu cu zvati」は「キツネがいる」と同様、「There are some foxes」とも「There is a fox」ともなる。あえて複数を明示する「キツネたちがいる」は「loi lorxu cu zvati」(群)や「lo'i lorxu cu zvati」(集合)に対応する。男性・女性による語形変化も両者には無い。
屈折/語形変化とは無縁のロジバンの内容語(brivla)は漢語に通ずるものがある。仮に内容語を漢字に置き換えても構文上の問題が無い。そしてこのとき機能語(ma'ovla)は日本語における平仮名助詞に広く相当する。以下は『不思議の国のアリス』のロジバン訳からの抜粋で内容語を漢字に置き換えたものである:
i me la 白 兎 noi 遅 走 戻 gi'e 悩 ke 周 視 ca le nu 来 kei tai le nu ry da pu 失
複合語にも共通点がみられる。「共同」と「制作」といった語を屈折なしに連ねた「共同制作」は、「kansa」と「zbasu」をそのまま連ねてできる「kansa zbasu」と原理が同じである。そして「共同制作」の構成字から「共作」とできるところは、「kansa zbasu」の形態要素から「kanzba」とできることによく似ている。
またロジバンでは俳句を作ることができる。以下はアルゼンチン出身のロジバニスト Jorge Llambías による作品からである:
vifne cergusni (5)
i le tricu cu klaku (7)
le clani ctino (5)
応用: 文学・科学
文芸活動におけるロジバンのメリットが期待されている。意思や現象を明晰に記述したり或いは必要に応じて漠然と多義的に表現したり、またその成果を建設的に模索・推敲するうえで、ロジバンの機能性が大きな役割を持っているからだ。科学の諸分野における数理的記述にも広く使用できることが提唱されている。基本単語のレベルでロジバンは諸々の数学・幾何学的概念の記述に要される言葉を多く備えている。
応用: 自然言語処理
人工知能は自然言語をどのように処理すればいいのか。その研究において、自然言語の文法の非一貫性や表現の事故的な多義性はしばしば混迷をきたすものである。この問題を解決する直接の手掛かりとしてロジバンのような言語が研究者達の間で着目されている。自然言語の文はロジバンに訳される際、前者由来の制約を抜け、意図されていない意味と意図されている意味とが淘汰されながら再構築される。これは、原文が有する多義性の全てを無差別に駆逐するということではなく、あくまで話し手・書き手が求めたとおりの意味合を自然言語の“靄”から掬い出して復刻させるということである(文芸上の理由で表現の曖昧さが初めから意図されているものであればこれはそのとおりに再現される)。ここに、“靄”を扱えない人工知能と“靄”に包まった自然言語という両者の間の仲介としてのロジバンの姿がある。
誤解にもとづく批判
ノーム・チョムスキーに学んだスティーブン・ピンカーは、自著で、曖昧性をいっさい欠いた言語を作るのは不可能だとしている。人間の想像しうる概念は無数とあり、それらの存分な表現が求められるところでは既成の単語だけでは間に合わず、言葉が2つ以上の意味を兼ねるという事態がやってくる、したがって、ロジバンなどにつき標榜されている明確性というものは、特殊な狭い範疇でのみその言語が使用される限りで表出するものでしかない、と彼は考える。ところが、ロジバンが提唱する非曖昧性というのは構文解析にまつわるものであって語釈のそれではない。ロジバンで抽象的なことを漠然と語るというのはいたって可能なのである。
多義性を欠いた合理的な言語は人間の感情を十分に表せないだろう、という憶測もある。これは、“体系的で整ったもの”にたいする偏見にもとづく誤解である。ロジバンには、命題の生成そのものには関与しない特殊な言葉(態詞)を多く備えている。いわゆるムードやモダリティなど、心の状態・度合を示すのに使われる。自然言語においてイントネーションや顔文字が果たしている機能をこれらの言葉がつかさどる。組み合わせられるので、必要に応じてより深いレベルの心の振る舞いに言及することができる。いわば話者が自身の心情を十分に自覚しているところではロジバンはそれらを洗練された体系の中で表現することのできる優れた感情言語なのである。
学習に関して
ロジバンの習得は、或る面において易しく、また或る面において難しい。
文法がきわめて整っており、知識を一貫して摘みとることができる。しかし上級者向けの文法原理には自然言語の知的枠組を超えているものがあり、その会得には相応の専心が要される。
述部(selbri)として使える言葉の全てが、どのような主部(sumti)をどのような位置関係で取り結ぶかについてあらかじめ定義されている。いわゆる place structure と呼ばれるこの定義の存在に当惑する初心者は少なくない。よくある誤解は、 place structure が量的な暗記を要する、というもの。たとえば klama という言葉は、それと結びつく一番目の語が「行く者」、二番目が「行く地点」、三番目が「発つ地点」というふうな place structure を有するが、その会得を量的な学習とみなしてしまうという思い違いがある。実際にはこれは量ではなく質の学習である。 place structure によって示されている「行く者」「行く地点」「発つ地点」といった概念は、 klama がつかさどる「行く」という事象が必然的に内包するものである。「行く者」なしには「行く」という事象は成立しない。「行く地点」や「発つ地点」を欠いた場合も同様である。 klama という語およびそれによって取り結ばれる「行く者」などの項とそれらの位置関係は、「行く」という事象にたいする質的理解を深めるなかで捉えるものであって量的に暗記されるものではない。問題は、事物の関係構造そのものを扱うこのロジバン語のパラダイムが特殊であること。伝統的な言語の多くは個体主義的で、その認識形式の影響下にある者は当然ロジバンの構造主義的な性格にたいする難しさを覚えることになる。
解説文献やコミュニティの補助言語として英語・フランス語・スペイン語・ロシア語などが使われている。比較的外国語能力の乏しい日本人にとっては参入が難しく、日本語圏におけるロジバンの認知度は著しく低い。ロジバンと日本語との間にはそれなりの近似性があり、日本人にとって特に難解な言語であるわけではない。