2009年06月15日

保存食(ほぞんしょく)とは、比較的長期間

保存食(ほぞんしょく)とは、比較的長期間(数か月から長いもので数年程度)にわたって貯蔵するため、腐敗を抑制する加工や処理がされた食品をいう。

保存食の多くは、気候や風土の関係で冬季や乾季など、長期にわたり食料の確保に困難を抱える地方や、遠洋航海や戦争などの食料の確保や輸送、あるいは貯蔵・調理に大きな制約をうける状況下で、その代案として工夫されてきた生活の知恵である。また、災害や飢饉の際の非常食としての役目もあり、現代社会においても備蓄が奨励されるべき物であると言える。近年では、調理の不要なインスタント食品としての需要も大きい。

これらは長期間食べられる状態で保存する必要性から、腐敗はもちろん、昆虫など他の動植物に消費され難くするための保管方法も求められた。人間が文明を獲得し発展させる段階で、安定的に食料を得ようという欲求があった訳だが、保存食もそういった必要性の中で発明され利用されてきた。

保存食は、原料や保存方法ともに多岐にわたる。海産物なら昆布、魚の干物、塩漬け、酢漬けなどがあり、農産物なら野菜の漬物や寒干しから、高野豆腐などの大豆加工食品、果物のジャムまで千差万別である。地域で得られる産品を、より遠隔地に輸送するためにも利用されており、名産品として広い地域で親しまれた食品の中にも、この保存食が見出せる。

保存の手法も様々であるが、容器による密閉(缶詰や瓶詰め)をはじめ、いずれも腐敗菌の繁殖を抑え、長期間の保存を可能にする工夫がみられる。通常であれば食品に一定の加工を施すが、蜂蜜やナッツ類等、そのままで長期の保存性を持つ食品もある。保存食とは、通常、常温で長期保存ができる食品をいうが、広義では冷凍食品等も含める。
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食品の多くは、常温で保管すると急速に鮮度が低下し腐敗する。冷凍や冷蔵技術の発達により、近年では多くの生鮮食品が比較的長期間、新鮮な状態のまま貯蔵できるようになった。しかし、一般家庭に冷蔵庫が普及したのは1970年代であり、それ以前は生鮮食品を長期保存することは困難であった。

多くの食品(特に野菜、果物や魚介類)にはいわゆる旬があり、決まった時期にしか手に入らなかった。季節を問わず野菜や果物類が手に入るようになったのは、最近のことである。このため生鮮食品を加工し、常温での保存性を高める工夫が行われてきた。

2009年05月30日

江戸も名を東京に改められた明治時代

鹿児島に戻らなかった天璋院は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず、徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞ったという。

規律の厳しかった大奥とは違った自由気ままな生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟や静寛院宮(和宮)とも度々会っていたという。また、徳川宗家16代・徳川家達に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどしていた。

明治16年(1883年)11月13日、徳川宗家邸で脳溢血で倒れる。意識が回復しないまま、11月20日に49歳(満47歳9ヶ月15日)で死去した。死後、新政府から従三位の位階を再び贈られている。
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墓所は、徳川将軍家の菩提寺である上野の寛永寺。夫・家定の墓の隣に埋葬されている。

家定との縁組について、将軍継嗣問題で一橋派であった斉彬が天璋院を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと考えたとする見方がこれまでは一般的であった。しかし、大奥より島津家に対する縁組みの持ちかけは家定が将軍となる以前からあり、芳即正の研究以降「島津家からの輿入れ構想と将軍継嗣問題は無関係である」とするのが定説となっている。

大奥が島津家に縁組みを持ちかけた理由として、家定自身が虚弱で子女は一人もいなかったこと、家定の正室が次々と早死したため大奥の主が不在であったことから、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。また、島津家側の理由としては、広大院没後の家格の低下や琉球との密貿易問題などを将軍家との姻戚関係を復活させることで解消しようとしたと考えられる。

斉彬が天璋院を養女にしたのも、健康体であった天璋院を家定へ輿入れさせることを想定してのことである(篤子の名も広大院にあやかったもの)。しかし、薩摩藩主の実子であった広大院と比較して天璋院自身は島津家分家の出身であり、一橋派大名からも「御台所としては身分があまりにも低すぎる」と言う懸念の声があったと言う[2]。 そのため、斉彬は天璋院を養女とした際に幕府へは実子として届出をしている。

2009年04月26日

イザヤ書

イザヤ書』(―しょ)は、旧約聖書の一書で、三大預言書(『イザヤ書』、『エレミヤ書』、『エゼキエル書』)の一つ。伝承では紀元前8世紀の預言者イザヤに帰される。プロテスタント教会の一般的な配列では旧約聖書の23番目の書にあたる。

全部で66章からなる。これは大きく前半と後半に分けることができ、前半の39章を『第一イザヤ書』と呼ぶ学者がいる。高等批評の立場の近代聖書学者は、この『第一イザヤ書』のみが紀元前8世紀の預言者イザヤ自身によって語られたと考えている(ただし、高等批評では1-39章においても多くの箇所が前8世紀のイザヤ自身によるものではないと考えられる)。

バルコニー美的生活COM
シェークスピア 経済ガイド
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デパーテ健康トレンディサーチ
ウィナーズ買物隊紹介
通信教育・生涯学習関連教育対策サイト
遊園地・チケット予約関連観光タウンネット
ピエールオジェコスメ販売情報
ジェメンド マネービジネス情報
ワンパック生活雑貨情報
カランドようこそ健康情報

後半はさらに2つに分けられるが、高等批評では著者の名前は知られていないとされる。聖書信仰に立つ学者は、死海写本の発見に基づいて、『イザヤ書』が一巻の巻物として統一されていたなどの理由をもって、後半も前8世紀のイザヤのものとする立場を変えていない。1892年の注解書の中でベルンハルト・ドゥーム(Bernhard Duhm)が、56-66章を第三の預言者に帰されると主張して以来、バビロン捕囚からの帰還の時期に活動したと考えられる預言者による『第二イザヤ書』(40?55章)とさらに後代の預言者によるとされる『第三イザヤ書』(56?66章)がリベラル派では区別される。

高等批評では、他のほとんどの預言書がそうであるように、預言者によって語られた言葉が弟子たちによってまず口承で受け継がれ、その後文書化されて以降も複雑な編集過程を経たと考えられており、それに伴い、構成も単純ではないとされる。

2009年04月10日

チャルガ

チャルガ(ブルガリア語:Чалга / Chalga)はブルガリアの音楽のジャンル。各種のバルカン半島の音楽に影響を受け、ロマ音楽、トルコ音楽などの要素をミックスした流行音楽である。ポップフォークとも呼ばれる。ギリシャやトルコ、そしてセルビアをはじめとする旧ユーゴスラビア諸国の音楽をアレンジしたカヴァー曲も多い。

「チャルガ」という語は、トルコ語で「演奏」や「音楽」を意味する「チャルグ」 (çalgı) という言葉に由来する。トルコ語で「音楽家」を意味する「チャルグジュ」 (çalgıcı) という言葉に由来するブルガリア語の「チャルガジヤ」 (Чалгажия、Chalgazhiya) とは、自分自身の独自のスタイルを加えた演奏や歌唱をする音楽家をさす。彼らは、楽譜を読めない者でも、自身の記憶に基づいてカヴァルなどを演奏する。パーティーや結婚式で演奏されるこうした音楽がチャルガの土台となっている。

共産党支配下で [編集]
共産党の支配下となった冷戦時代、ブルガリアではチャルガは好ましくない音楽とみなされた。チャルガには共産主義に向かって前進するような要素はいとされ、1980年代の共産党の指導者トドル・ジフコフによって、トルコや西アジアからの要素を含むチャルガよりも、「純粋でスラヴ的、国粋的」な音楽が好ましいとされた。また、激しく腰を振り、好色的な歌詞も少なくないチャルガは退廃的、非道徳的なものとみなされた。また、チャルガはロマ音楽の要素を強く受け、ロマ (ジプシー) によって発展してきた側面から、ロマに対する差別意識がこうしたチャルガに対する圧迫の背景にあったともいわれている。

ブルガリアでチャルガに対する圧力の強かった時代、隣国ユーゴスラヴィアは東側陣営に属さず、より自由度の高い独自の社会主義体制がしかれており、そのため同国ではチャルガ同様の音楽ターボ・フォークが大きく発展をとげた。多くのブルガリア人は隣国から流れてくるターボ・フォークのラジオに耳を傾けた。

ギリシャでは、アナトリア半島のギリシャ人を中心に発達したメロス (Melos) とよばれる伝統音楽が現代化してライコーという音楽が誕生した。ライコーと関連の深い音楽には、Orkester Kristal などに代表される初期のブルガリアのチャルガと類似性の高いものもある。トルコのアラベスク音楽は土着の伝統音楽と中近東からの影響をミックスした音楽で、1960年ごろ成立した。

共産党体制崩壊後 [編集]
1989年、ジフコフ体制は崩壊し、文化に対する統制の時代が終わった。それまで弾圧されていた音楽が芽生えはじめ、チャルガはその息の根を吹き返した。チャルガは公然とマスメディアにも登場するようになり、それまで密かに活動していたミュージシャンたちが注目を浴びるようになった。

初期の頃の代表的な歌手はOrkester Kristal の歌手トニ・ダチェヴァ、そして続いて「チャルガの母」とよばれるグロリア (歌手)、デシ・スラヴァ、イヴァナなどの歌手たちが現れた。パイネルはこのジャンルの音楽を大量にリリースし続けるブルガリアの大手のレコード会社にまで成長した。

21世紀以降 [編集]
2000年頃からチャルガの人気は次第により現代的なポップフォークや、ギリシャ、セルビアなどの音楽、そしてウスタタやウプスルト (Upsurt) 、ミショ・シャマラ (Misho Shamara) などに代表されるヒップホップなどに取って代わられたとも言われているが、ソフィアやヴァルナなどのナイトクラブ、そしてテレビで放送される多くのビデオクリップには、チャルガは頻繁に登場する。

ブルガリアでの扱い [編集]
チャルガとブルガリアのポップ・ミュージックとの境界線は曖昧で、ダンス・クラブやパブなどでも頻繁に聞くことができる。チャルガはうまく伝統音楽を流行音楽に取り込んだ例であり、多くの人々から支持されている一方で、明確にチャルガを嫌う人々も少なくない。それは主にチャルガが外国からの要素やロマの要素を多く含むこと、そして性的な内容の歌詞を含むことなどによると考えられる。

ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

2009年03月26日

秋現在のニコニコ動画は

秋現在のニコニコ動画は、動画を直接アップロードするサービスそのものではなく、他の動画投稿サイトにアップロードされた動画を独自のコメント表示・投稿機能を通して観覧させるというものである。SMILEVIDEOに動画をアップロードする(SMILEVIDEOはニコニコ動画専用のサイトであるため、アップロードするだけで自動的にニコニコ動画に登録される)ことで、ニコニコ動画内でその動画を見ることができるシステムとなっている。

βサービスまではYouTubeにアップロードされた動画にも対応しており、事実上、サイト上の大半の動画がYouTubeのものであった。しかし、ニコニコ動画からYouTubeのサーバーへのアクセスを完全に遮断されたため、βサービスの終了を余儀なくされ、γサービスとしての再開時には対応を完全に打ち切った。ここで、その代替として用意されたのがSMILEVIDEOである。なお、YouTube側はアクセスを遮断した理由に関して公式な発言をしていないが、ニワンゴはYouTubeのサービスに「ただ乗り」し、動画を直接参照する形でサービスを開始し、人気とともにアクセス数やトラフィックが爆発的に上昇したため、YouTubeのサーバに多大な負荷がかかってしまったことが理由と推測される[5]。

また、RCサービスの途中まではAmebaVisionにアップロードされた動画にも対応していたが、2007年10月1日に行われたメンテナンスを機に、運用上の理由から対応を終了した。SMILEVIDEOに規約違反の動画(違法なものや、わいせつなものなど)をアップロードしアカウントを停止されたユーザーが、その逃げ口として「AmebaVisionのアカウントを取得し、再び問題のある動画をアップロードする」という使われ方が横行したのを終了の理由としている。また、βサービス時はYouTube、γサービス以降はSMILEVIDEOが投稿の大半を占めており、AmebaVisionの動画の投稿が極めて少なかったことも理由のひとつと考えられる。

そしてフォト蔵にも対応していたが、2008年5月28日のメンテナンスを機に対応を終了した。

なお、リンク元サイトの元動画と比較して画質が異なるとの主張もあるが、再生しているFLVファイル自体および再生に使うFlashのシステムは同一であり、異なるのは表示倍率のみ(ニコニコプレイヤー上では512×384ピクセルで表示されるため、それよりもサイズの小さな動画は拡大表示される)である。

エコノミーモード
プレミアム会員を除き、一定条件(サーバー負荷や時刻等)で動画の画質を強制的に下げる「エコノミーモード」になる(以前は「低画質モード」という名称であった)。この状態になると一部の動画において、音ずれする、動画の再生時間が短くなる、稀な例として画面が乱れるという現象が起こる場合がある。これは以前の低画質モードでも共通の物である。なお、もともと画質の低い動画はエコノミーモードの対象にはならない。そのため、エコノミーモードにならないギリギリまで画質を下げた「エコノミー対策」高画質動画が増えてきている。また、動画のURLの最後に?eco=1と付け加えて入力すれば、意図的にエコノミーモードにすることもできる。

画面レイアウト

右上
サイトの右上には、ニコニコ市場の購入速報や、ページのアクセントとして『今日のひと言』的なメッセージを表示するスペースが存在していた。毎日更新されるこのスペースはそのまま『右上』と呼ばれ、ユーザーに親しまれていた。当初は標語のようなメッセージが大半だったが次第にキャラクター性を帯びるようになり、ユーザーに対しコメントを残すパターンも多かった。 http://twitter.com/nicovideojp 右上リスト
ワンス ボデオ モンクレ シガト ドレア パーコレ スタート メジャー ピーエイ ソフトダ ロッド たむぽえ フレム パンジー 羅生門 ブリスベ 便利に イチゴ ストッ ニット えいか ハンド ジース カーネリ ドラー あいら パンゲア オブラ ジンサ スカジー ドルペッグ うたまくら えいこう モルディブ たいゆう ニオブ 美女と野獣 ドーマ トップ トパイ ダウンベ ナビルポ ナトリ ろぎょ オーニソム 雪舞い マルチ タイトルラ トリ キャメ

しかし2008年10月1日の「ニコニコ動画(秋)」開始とともに右上は広告欄となり、それにより右上のコメントは姿を消した(広告掲載が直接の原因ではなく、ページを開いた際に最初に見える『ファーストビュー』を重視した結果)。しかし、運営からの告知が行われる「ニコニコニュース」には「毎日沢山の一言案を書き込んでいただいていたので、場所を変えて再開する予定です」との「予告」がされていた。そして休止から20日後の2008年10月21日、広告欄を利用する形で右上が復活。同時に最近のコメントを閲覧できる特設ページ「最近の右上」が開始された。

その他
2007年11月26日のメンテナンス以降、ページ上部のアカウント表示部分に新たに気象情報(アカウントで設定された地域)が追加された。
サイト左上のアニメーションしているアイコンをクリックすると、定期的に変更される単語により、自動的に検索が行われる。ほとんどのアイコンは同じワードだが、「よていち」札に限り例外である。

2009年03月10日

カルタヘナ (コロンビア)

カルタヘナ(Cartagena)はコロンビアの都市である。ボリーバル県の県都。人口107万5千人(2006年)。

カリブ海に面した港町で、「カルタヘナの港、要塞と建造物群」が世界遺産に登録されている。コロンビアきっての観光地である。

カルタヘナ(正式名称:カルタヘナ・デ・インディアス)はコロンビア共和国北部、カリブ海沿岸に位置するボリーバル県の首府であり、同国で最も観光客の多い観光都市である。

スペイン植民地時代の様々な歴史的建築物が数多く現存することから、1985年にユネスコの世界遺産に登録された。

人口:89.5万人(2005年国勢調査:コロンビア第5の都市)
気候帯:熱帯気候(平均気温27.7℃。年間を通じて18℃?30℃と非常に温暖である。)
面積:57K?
バニラ ラバー 野かんぞう シバナ ナムル 青じそ ネムノ マンナン シュミー 春の小川 スキル マルシー フライ イノベー フェロール ウシカ おすすめ ライフ シュー スタイ ラードダ カタクリ 桜桃 ステッカ バイオ ドリフト テキス サイト刈穂 ルクラス シャンパン ピン幸運 ドラキュラ ヨード パレス トレー しりもち くさなぎ アックス すたー るはーぶ ワイルド ぴおーね 天使のア シスタ リライト ランス ナルキ サイバ グロブリン ポイント

地勢:北緯10度16分(グアム島と同緯度)、東経75度30分(ニューヨーク市と同経度)
観光客:年間約80万人が空港を利用。国際線で入ってくる人は8万人弱
国内第2位の荷揚げ港:年間130万トン強の貨物が港から出入りする。(第1位は太平洋岸のブエナ・ベントゥーラ港)

歴史
カルタヘナ市はスペインによる征服時代以前はカリブ語(Karib)を話す戦闘的なカラマリ族(Karamari)というインディオの一族が住人であり、カラマール(Calamar:イカという意味)と呼ばれていた。

カラマールは1500年にスペイン人ロドリゴ・デ・バスティダス(Rodrigo de Bastidas)と接触した。カラマリ族との長い戦闘の末、1533年1月20日にようやく現在のカルタヘナ市が同じくスペイン人のペドロ・デ・エレディア(PEDRO DE HEREDIA)により建設された。同市の建設が遅れた理由として飲料水の不足と好戦的なカラマリ族が毒矢を用いて強く抵抗したこと等が大きな要因とされている。

16世紀以降、スペイン人がインカ帝国を滅ぼして以来、スペイン帝国の最も重要な投錨地として発達し、南米各地で強奪した金やペルー、アルト・ペルーのポトシ銀山の銀、エメラルドをはじめとするアメリカ大陸の産物の輸出港となり、南米北部の奴隷貿易の中心地でもあった。その富が、カリブの海賊たちや他国の標的になりやすいため、石灰岩(サンゴ石)の壁を造った。

かくしてカルタヘナは17世紀から18世紀にかけて繁栄の絶頂期を迎えた。現存する遺跡の城塞教会、植民地街等はこの時代の物である。

この富む町に目を付けたカリブの海賊達(仏、英)は同港からスペインへの輸出を妨害し略奪に走った。しかし、カルタヘナは海賊の攻撃に良く耐え、ハプスブルク朝のフェリペ2世の命令の元、アフリカ人奴隷達の労働力により難攻不落の港の建設に着手した。この城壁は1741年に英国より送られた大船団に対し大きな効力を発揮しこれを防いだ。

1811年11月11日、海賊の横行やスペイン人支配に我慢しきれなくなったカルタヘナの住民はスペイン本国からの独立を宣言するに至った。

1812年12月15日 シモン・ボリーバルがこの地でスペインへの徹底抗戦を誓うカルタヘナ宣言を発表している。

これに対しスペイン本国はフェルナンド七世のもとカルタヘナ再征服のため、1815年パブロ・モリージョ(PABLO MORILLO)を同地に送った。モリージョは同市を121日間に渡り包囲したのみならず多大の死傷者を出させたが、南米全体のスペイン本国からの独立獲得戦争の動きに抗しきれず、1821年ベネズエラのカラカス出身の大英雄シモン・ボリーバル(SIMON BOLIVAR)のスペイン人征服者の国外追放によりこの長い戦いも完全終結しカルタヘナも完全な独立を獲得した。

こうした数々のエピソードはカルタヘナに『英雄都市(CIUDAD HEROICA)』としての称号を与えることとなった。

2009年02月22日

ロジバン文の意義は、自然言語の構文

ロジバン文の意義は、自然言語の構文の曖昧さと比較するところで認識される。たとえば、以下は日本国憲法序文からの日本語文の引用である:
バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

主語「われら」にたいする述語は末尾の「信ずる」だが、その途上にまず「無視してはならない」という別の述語が介在しており、また他の語句や読点による不規則的な区分がそこに交わってくるかたちで文の構造と意味関係がやや煩雑となっている。そこでは、パーサなどが「われらは?無視してはならない」と「政治道徳の法則は?と信ずる」という誤った区分に基づく解析をしてしまうことを免れるのが困難となっている。これを自然言語の曖昧さという。このような曖昧性の壁を通過して文の真意を推しはかるには一定の抽象化(たとえば「われら」と「無視してはならない」の間にある文法的引力を意図的に看過しながら文末の「信ずる」を結びとして優先し、これを受け取ったところで前半の節を参照しなおす過程)が要されるが、読み手はそれと引き換えに論理の直接性にたいする一定の認識を犠牲にすることとなる。ロジバンの統語論は、自然言語にみられる文法上のこのような多義性を根本から回避している。また、上記のような長文の記述においては、統語論的一貫性を維持しながら語順を自在に変化させて認知言語学の観点で“易しい”表現を模索することができる。曖昧でない構文はまたコンピュータにとっても扱いやすい記述につながり、この形式言語的な性格からロジバンはプログラミング言語の一つとしても使用できるという潜在性を持っている(ロジバン用のコンパイラが現在存在するわけではない)。

ロジバン文の中核をなすのは、事物と事物との関係を表す selbri である。
do mamta mi
do patfu mi
この二つの表現の差は、{do} と {mi} とがどういう関係にあるのかを表す selbri {mamta} と {patfu} の違いにある。 selbri によって取り結ばれている {do} や {mi} は terbri であり、 selbri と terbri のまとまりが bridi である(つまり {do mamta mi} というまとまりは一つの bridi である)。 selbri は全て、どのような terbri をどのように取り結ぶのかについて公式に定義されている。これを place structure (以下 PS ) という。 mamta と patfu は異なる PS を有する。 PS の違いが命題の違いを成す。或るロジバン文を理解するということは、どの terbri がどの selbri の PS によって取り結ばれているのかを把握することである。取り結ばれ方は非曖昧であり、文法を会得している者の間では bridi は全て正しく一貫して解析される。

lo ti mamta cu mamta lo ta mamta

{mamta} という言葉が三つ登場しているが、そのうちの一つが主要の selbri である。他の読み方はなされえない。相応の知識を身につけた話者には次のように認識される:

つまり中央の {mamta} がメインの selbri で、他の {mamta} は terbri の一部であるということ。

ロジバンの構文は形式的だが、その表現能力にはひじょうに柔軟なところがある。西洋言語における文法概念との比較においてしばしば取り上げられる「象は鼻が長い」という日本語の題述構造の文は、ロジバンにおいて次のように忠実に再現される:
{lo xanto} (象)を話題として {zo'u} が区切り、続いて terbri {lo nazbi} が selbri {clani} と結びつく。 {cu} は terbri と selbri の区切を示す。この区切が無いと、1) {nazbi} は {clani} に流れて {nazbi clani} という一つの selbri をまず形成する、2) これを冠詞 {lo} が取り込んで terbri 化する、3) 結果、この文から selbri が消失する。

(terbri は原理的に sumti である。ここでは bridi の部品として捉えているので terbri と呼んでいる。 sumti は項として扱えるもの全般を指すのにたいして terbri はもっぱら selbri が取る項すなわち bridi を作り上げる項を狭義的に指す。)

ちなみに英語の「Elephants have long noses.」は次のように再現される:

loi xanto cu ponse loi clani nazbi
terbri selbri terbri

selbri が替わるほか、 terbri が二つになる。

上の二例を折衷するかたちでより一般的なロジバン表現に書き換えると次のようになる:

あえて日本語に訳し返せば「象は鼻長である」といった趣に近い。ここでは terbri は {lo xanto} 一つであり、これが selbri {nazbi clani} と結びついている。

命題の生成には関与しないところで感情や態度を表すことができる。これには ma'ovla の一種 cnima'o を用いる。

文の論理性に寄与しないことから cnima'o の文法空間 cnipau は基本的に li'erpau と bridi から独立していると考えられる。それでも cnima'o が形容するのはあくまで文の特定の内容物であり、実際の文面ではしばしば基本の垣根を越えて li'erpau や bridi 中に入り込むことになる。上の例では文の頭に置かれているので右方向に文全体を形容している。 {loi pendo cu klama} (友達が来る)という事象全体について {.ui} で嬉しさを表している。文頭以外では形容が左向きとなる:

前者三段は日本語の「友達」一語では解析できないレベルでの嬉しさの対象の微妙な違いを表し分けている。後者は「来る」という事象についての嬉しさを表している。このように cnima'o の参照範囲は常に明確である。また必要があれば参照範囲は特定の処方によって自由に拡張させられる。

語順は自由に変えることができる。要となる観点は PS である:

x1 x2 x3 x4 は selbri {ciska} の PS の変数項である。それぞれに {mi} {ra} {ti} {ta} という terbri が収まっている。「私は・あれを・ここに・あれで、書く」という日本語表現の語順すなわち SOCV をそのまま反映させた形となっている。厳密にはロジバンの selbri は動詞でも形容詞でもなく、また terbri は主語でも目的語でもないので、 S や O や V とのアナロジーはあくまで擬似的なものでしかない。英語の SVOC を模せば次のようになる:

selbri の位置を移すだけでなく、 terbri 同士を入れ換えることもできる:
結果として如何なる言語の訳においても本来の語順を正しく反映させることができるようになっている。

先ほどはあった {cu} がこれらの例に無いのは、 {mi} {ra} {ti} {ta} といったものがここではそれぞれ terbri としてしか解釈しえないので selbri との区切を明示する必要がないからである。このように、構文上の要素の境界を示すために用意されている境界詞は条件に応じて省略されうる。言い換えれば、解析上の曖昧さが危惧される場合には相応の境界詞で対処する。これらによって解決できない構文の曖昧性は実質的に無い。

一般の言語では文の境界を句点や終止符で示す。これは書言葉の産物であり、口言葉における直の対応音声を持たない。たとえば「僕は町に行く。君が僕を待っている。」における二つの句点(。)は音声化されない。文が分かれていることはイントネーションによって漠然と示される。一方、言文の一致が徹底されているロジバンでは、文の区切を無音の記号ではなく有音の言葉で表す:
/i/ の前の点は音韻論上のものであり、これ自体が文の区切を示しているわけではないことにまず注意されたい。

文の接続を意味するものなので、文の間だけに置く。英語の終止符などと違い、文が続かない場合には必要とされない。このことから、「以上/完」よりも「そして」という語感を帯びやすいが、もっぱら論理的な「そして/AND」や時間的な「そして/THEN」を表す言葉は別に用意されている。

文の繋がりに論理性や時間性などを含める処方としてまず相応の言葉をそのまま {i} と組み合わせるものがある
項右項とある接続部のうちの一つを出したあとに接続を開始することからこの例は後見接続(afterthought connective)と呼ばれる。

両接続部よりもまず先に接続の言葉を出しておくという用法もある:

これは先見接続(forethought connective)と呼ばれる。 {i} が併用されていないが、接続されているものは文である。
ロジバンは、先立つジェームズ・クック・ブラウンが開発したログランから派生した。両者の主な違いは語彙にある。ブラウンがログランの文法を幾度となく改変していたところ、一部の者達がこれを見限り、ログランの総括を独自に進めようとした。そのおり、元来の語彙について草案者であるブラウン自身が著作権を主張したので、分裂派は語根をゼロから創りなおすことにした。これが現在のロジバンの gismu の発端である。係争は法廷にてブラウンの主張が却下されるという結果になるが、その時点で gismu 開発が一通り実を結んでいたので、分裂派はこれを自分達のログラン解釈あらためロジバンの正規の語根とするにいたった(LLG もここに結成される)。LLG 自身はこれをログランからの決別とは捉えておらず、むしろログランの真価を発揮させるためのプロジェクトとしてみている。「Lojban: A realization of Loglan」という標語からもその姿勢が明らかである。

この新しい語根群、gismu は、ログランと同様、異なる自然言語から採取された言葉を融合することで作られた。ロジバンではさらに各言語の話者数を“重み”としてアルゴリズムに加えており、このことがログランとロジバンの語音の差異に大きく影響した。たとえば「標準・規範」を意味するログラン語は「norma」だが、ロジバンでは英語など他の源泉語にたいする中国語の比重が大きいため「常/cháng」の構成音が有力となり「cnano」が生まれた。また、ログランの各文法概念には英語・ラテン語・ギリシャ語などの自然言語の言葉が当てられていたのにたいし、ロジバンでは独自に内部由来の用語が編み出された。例: primitives/gismu、lexeme/selma'o、little words/cmavo、metaphor/tanru、borrowing/fu'ivla 。

ログランとロジバンは同じ文法思想を汲んでいる。具体的な違いとしては、ロジバンの設計が yacc に沿っていること、プリプロセッサの記法を取り入れていること、などが挙げられる。また、ログランにおける q と w はそれぞれ k と u- の同音異字としてロジバンでは削除された。形態論上の認識のしやすさから h は ' (アポストロフィー)に置き換えられた。ロジバンの音素配列体系がログランのそれよりも厳密に設計されていることにも注目されたい。

ちなみにログラン由来の仲間として、もっぱら中国語に影響を受けた Ceqli や Gua/spi、Visual Basic や速記法にヒントを得た Lojsk などがある。

比較: エスペラント
ロジバン話者の総数は、正確な測定が不可能にせよ、エスペラントのそれよりも少ないということが両者の普及活動の規模の差からうかがえる。ロジバンの意義は、国際補助語としてではなく言語そのものとしての完成度の点で観るときに認められる。エスペラントの特徴には、

大規模な普及活動に基づく大きなコミュニティ、多くの施設とネイティヴ・スピーカー
長い歴史にわたって蓄えられた豊富な文学
というものがまずある。“易しくて中立的な言語”と標榜されることもあるが、これは西洋言語を母語とする者の観点に端を発しており、たとえばアラビア語や中国語の母語話者から観ればエスペラントの文法と語彙は英語のそれと同様に異質なものとなる。中立性についてロジバンと比較した際には次のような対照が浮き彫りとなる:

エスペラントの語彙の大半が西欧系語派の由来であるのにたいし、ロジバンの語根はより多様な語派を源泉としている。
エスペラントの文法がもっぱらロマンス語派に基づいているのにたいし、ロジバンの文法は文化的傾倒のない述語論理を基盤としている。
エスペラントの構文が自然言語の面影を残しておりパーサで処理するのが困難であるのにたいし、ロジバンの文章はその構文規則の明快さから解析が容易となっている。つまり人間のみならずコンピュータにとっても読みやすい。
エスペラントでは屈折や造語法が性差別的であるのにたいし、ロジバンの形態論はそのような文化特有的な性意識から解放されている。
エスペラントはその特殊な文字のために多くのコンピュータにとって入力の準備に手間がかかるが、ロジバンはどのようなキーボードからでも入力できる。
エスペラント文法における約束事の数はロジバンのそれよりも少なく、この点でエスペラントはロジバンよりも学習の荷が小さいといえる。文法の軽量さはまた表現力の限界をもたらし、この点では前者よりも後者のほうが多様な事物事象の記述に対応できるといえる。また学習の荷の大きさは、裏をかえせば学ぶ事柄・発見する事柄の多さを意味する。

以上のような相違は、両者の設計思想の違いによるところがある。エスペラントは、いずれはフランス語や英語やスペイン語にとってかわる国際語として多数の人に話されることを目指して創られた。一方でロジバンは、言語そのものの本質や可能性、そしてそれらと人間個人の意識や思考との関わりを主眼に置いている。また、もともとエスペラントは当時未発達であった言語学やプログラミング学の恩恵を蒙ることができずに草案されたため、結果として設計部分の多くが現代の基準や需要に合わないものとなっている。ロジバンの誕生は、偶然にもエスペラントが発表されたちょうど100年後に当たる。この間に言語に関する知識は大きく革新し、その潮流の中でログランすなわちロジバンの前身が生まれた。既存の国際語を別なものに置き換えるという挑戦のうえにあっていくらかの宗教性を巻き込むことになったエスペラント運動の一方で、ログランとロジバンは人間が使える言語としての機能性の高さを求める言語学者とプログラミング学者達によって支えられてきた。それでも初期のロジバンの開発者の多くはエスペラント話者でもあり、両コミュニティの間に接点がまったく無かったわけではない。ロジバンのコミュニティは開発当初から Usenet 等のコンピュータネットワークを基盤としており、そのことからかつては geek (コンピュータマニア)の趣味とみなされることもあった。しかしインターネットがごく一般化した現在ではロジバンの学習者層は多様化しつつある。

比較: 日本語
言語学的にみてロジバンは無系統である。しかし、同様に孤立した言語とみなされる日本語との間にいくつかの共通点を見出すことができる。

三上章の研究によると、日本語は述語が中心となって主語・目的語・補語をまとめる題目述部の構造にあるという。名詞はそれぞれ格助詞を有するが、英語ほどに能動・受動の関係は強くはない。これは、文法的に対等な terbri を selbri が束ねるというロジバンの構造とよく似ている。「象は私が餌をやります」の「象は」といった話題もロジバンでは忠実に表現できる。

日本語では単数と複数の区別が必須ではない。この「通数」の原理がロジバンにもある。「lo lorxu cu zvati」は「キツネがいる」と同様、「There are some foxes」とも「There is a fox」ともなる。あえて複数を明示する「キツネたちがいる」は「loi lorxu cu zvati」(群)や「lo'i lorxu cu zvati」(集合)に対応する。男性・女性による語形変化も両者には無い。

屈折/語形変化とは無縁のロジバンの内容語(brivla)は漢語に通ずるものがある。仮に内容語を漢字に置き換えても構文上の問題が無い。そしてこのとき機能語(ma'ovla)は日本語における平仮名助詞に広く相当する。以下は『不思議の国のアリス』のロジバン訳からの抜粋で内容語を漢字に置き換えたものである:

i me la 白 兎 noi 遅 走 戻 gi'e 悩 ke 周 視 ca le nu 来 kei tai le nu ry da pu 失
複合語にも共通点がみられる。「共同」と「制作」といった語を屈折なしに連ねた「共同制作」は、「kansa」と「zbasu」をそのまま連ねてできる「kansa zbasu」と原理が同じである。そして「共同制作」の構成字から「共作」とできるところは、「kansa zbasu」の形態要素から「kanzba」とできることによく似ている。

またロジバンでは俳句を作ることができる。以下はアルゼンチン出身のロジバニスト Jorge Llambías による作品からである:

vifne cergusni (5)
i le tricu cu klaku (7)
le clani ctino (5)
応用: 文学・科学
文芸活動におけるロジバンのメリットが期待されている。意思や現象を明晰に記述したり或いは必要に応じて漠然と多義的に表現したり、またその成果を建設的に模索・推敲するうえで、ロジバンの機能性が大きな役割を持っているからだ。科学の諸分野における数理的記述にも広く使用できることが提唱されている。基本単語のレベルでロジバンは諸々の数学・幾何学的概念の記述に要される言葉を多く備えている。

応用: 自然言語処理
人工知能は自然言語をどのように処理すればいいのか。その研究において、自然言語の文法の非一貫性や表現の事故的な多義性はしばしば混迷をきたすものである。この問題を解決する直接の手掛かりとしてロジバンのような言語が研究者達の間で着目されている。自然言語の文はロジバンに訳される際、前者由来の制約を抜け、意図されていない意味と意図されている意味とが淘汰されながら再構築される。これは、原文が有する多義性の全てを無差別に駆逐するということではなく、あくまで話し手・書き手が求めたとおりの意味合を自然言語の“靄”から掬い出して復刻させるということである(文芸上の理由で表現の曖昧さが初めから意図されているものであればこれはそのとおりに再現される)。ここに、“靄”を扱えない人工知能と“靄”に包まった自然言語という両者の間の仲介としてのロジバンの姿がある。

誤解にもとづく批判
ノーム・チョムスキーに学んだスティーブン・ピンカーは、自著で、曖昧性をいっさい欠いた言語を作るのは不可能だとしている。人間の想像しうる概念は無数とあり、それらの存分な表現が求められるところでは既成の単語だけでは間に合わず、言葉が2つ以上の意味を兼ねるという事態がやってくる、したがって、ロジバンなどにつき標榜されている明確性というものは、特殊な狭い範疇でのみその言語が使用される限りで表出するものでしかない、と彼は考える。ところが、ロジバンが提唱する非曖昧性というのは構文解析にまつわるものであって語釈のそれではない。ロジバンで抽象的なことを漠然と語るというのはいたって可能なのである。

多義性を欠いた合理的な言語は人間の感情を十分に表せないだろう、という憶測もある。これは、“体系的で整ったもの”にたいする偏見にもとづく誤解である。ロジバンには、命題の生成そのものには関与しない特殊な言葉(態詞)を多く備えている。いわゆるムードやモダリティなど、心の状態・度合を示すのに使われる。自然言語においてイントネーションや顔文字が果たしている機能をこれらの言葉がつかさどる。組み合わせられるので、必要に応じてより深いレベルの心の振る舞いに言及することができる。いわば話者が自身の心情を十分に自覚しているところではロジバンはそれらを洗練された体系の中で表現することのできる優れた感情言語なのである。

学習に関して
ロジバンの習得は、或る面において易しく、また或る面において難しい。

文法がきわめて整っており、知識を一貫して摘みとることができる。しかし上級者向けの文法原理には自然言語の知的枠組を超えているものがあり、その会得には相応の専心が要される。
述部(selbri)として使える言葉の全てが、どのような主部(sumti)をどのような位置関係で取り結ぶかについてあらかじめ定義されている。いわゆる place structure と呼ばれるこの定義の存在に当惑する初心者は少なくない。よくある誤解は、 place structure が量的な暗記を要する、というもの。たとえば klama という言葉は、それと結びつく一番目の語が「行く者」、二番目が「行く地点」、三番目が「発つ地点」というふうな place structure を有するが、その会得を量的な学習とみなしてしまうという思い違いがある。実際にはこれは量ではなく質の学習である。 place structure によって示されている「行く者」「行く地点」「発つ地点」といった概念は、 klama がつかさどる「行く」という事象が必然的に内包するものである。「行く者」なしには「行く」という事象は成立しない。「行く地点」や「発つ地点」を欠いた場合も同様である。 klama という語およびそれによって取り結ばれる「行く者」などの項とそれらの位置関係は、「行く」という事象にたいする質的理解を深めるなかで捉えるものであって量的に暗記されるものではない。問題は、事物の関係構造そのものを扱うこのロジバン語のパラダイムが特殊であること。伝統的な言語の多くは個体主義的で、その認識形式の影響下にある者は当然ロジバンの構造主義的な性格にたいする難しさを覚えることになる。
解説文献やコミュニティの補助言語として英語・フランス語・スペイン語・ロシア語などが使われている。比較的外国語能力の乏しい日本人にとっては参入が難しく、日本語圏におけるロジバンの認知度は著しく低い。ロジバンと日本語との間にはそれなりの近似性があり、日本人にとって特に難解な言語であるわけではない。

2009年02月06日

戦国大名勢力は中世的な支配体系

15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。
ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えた。

安土桃山時代
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一事業は豊臣秀吉が継承することとなった。

秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。

秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。

江戸時代
徳川家康
浮世絵(『富嶽三十六景 - 凱風快晴』葛飾北斎
黒船来航詳細は江戸時代を参照

慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。

秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると、江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。この後幕府は、17世紀中葉までに、武家諸法度の発布や参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化をすすめ、社会の安定化に努めた。そうした中勃発した島原・天草一揆は、キリスト教禁止強化と幕府による管理貿易である鎖国の完成へとつながった。琉球王国と蝦夷地の支配も大名を通じて行なわれた。

一方で、社会の安定化に伴い、耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらし、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。

社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。18世紀に入ると幕府財政が慢性的に悪化し、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力は断続的に行われた(寛政の改革、天保の改革等)。この時期、都市町人を中心とする化政文化が花開いた。しかし、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化などを背景として、幕藩体制は次第に動揺していった。

19世紀中ごろまでに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)により、幕藩体制は限界を迎えていた。同後半の黒船来航と日米和親条約締結を契機として、幕府の管理貿易体制(鎖国)は解かれ、結果として幕府の威信は低下し、朝廷の権威が増大した。幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、反発する薩摩藩、長州藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北し、瓦解した。

江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。

明治時代
明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けると、明治新政府を樹立した。新政府は欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行した。その過程で琉球王国や蝦夷地を日本領とし、現在の日本につながる国土の領域をほぼ確定した。新政府は不平等条約の改正を目指し、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で台湾統治や韓国併合を行なった。

文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来し、その有様は文明開化と呼ばれた。それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。

大正時代
関東大震災詳細は大正、日本近代史をそれぞれ参照

大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。日本は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになった。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動の結果、アジアで最初の普通選挙が実施され政党政治が成立したが、同時に治安維持法が制定され共産主義への弾圧が行われた。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。

昭和時代
真珠湾攻撃
日本国憲法詳細は昭和、日本近代史をそれぞれ参照

昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。大正期から続いた不景気が世界恐慌が直撃し、社会不安が増大した。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中華民国との日中戦争(支那事変)に発展した。これがアメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退し、日本はドイツ、イタリアのファシスト政権と三国同盟結び、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入した。

日本軍はアメリカ軍の物量と通商破壊戦に圧倒され、原子爆弾を投下されて太平洋戦争に敗れた。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、象徴天皇制、国民主権、平和主義などに基づく日本国憲法を新たに制定した。サンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。自民党と社会党の保革55年体制のもと、高度経済成長を経て経済大国の仲間入りを果たした。昭和末期にはバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。

平成時代
平成年間(1989年 - )は平成時代と呼ばれる。昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、その後の長期にわたる不況は失われた10年と呼ばれ、経済面での構造改革が進められた。政治面では冷戦が終結した結果、自社両党による55年体制が崩壊し、非自民連立内閣が成立した。

戦後一貫して進んできた文化・生活の多様化が、一層進展している。

時代区分
日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説とよべるものはない。しかしながら、一応のところ、(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつにおくかは論者によって大きく異なる。

古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、太平洋戦争での敗戦をもって近代と現代を区分することもある(以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代)。

上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。

一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため南北朝時代・戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は本来なら「東京時代」と呼称すべきであろうが、天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれている。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている(詳細→日本史時代区分表)。

また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化〜などとする区分もある(詳細→日本の文化#歴史)。

歴史認識・歴史叙述
日本における近代的な歴史思想の導入は、19世紀後半の明治維新以降のことであるが、それ以前も、古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。

古代
ヤマト王権が統一国家を形成しようとしていた6世紀には、倭王家の系譜を記す『帝紀』・倭国の神話を記す『旧辞』が、7世紀前半には厩戸皇子らによって『天皇記』が編纂された。そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した8世紀前半には、日本最初の正史である『日本書紀』が完成した。『日本書紀』は中国の正史の影響を強く受けており、天皇支配の正統性を強く訴え、皇位継承の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、『日本書紀』を含むその後の正史(いわゆる六国史。『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。

正史である六国史の編纂は「撰国史所」などと呼ばれていた機関を中心に国家事業として行われたが、『日本三代実録』を次ぐ『新国史』の編纂が途中で中止されたのを最後に正史の編纂は行われなくなり、平安中期以降は官人らが政務処理に先例を参照するための歴史資料として『類聚国史』『日本紀略』『百錬抄』やその他各種の年代記が編纂された。以上の歴史叙述はすべて漢文体によるものだったが、平安後期になると、人間をあるがままに日本風に描くという国風文化の影響のもと、表現形式がより柔軟かつ豊富な和文体による歴史物語・軍記物語・説話集が多数記されるようになり、これらは、従前の正史的歴史観への新たな歴史的意味付けの所産であると解されている。代表的なものとしては、歴史物語では『栄花物語』『大鏡』『増鏡』などが、軍記物語では『平家物語』『太平記』などが、説話集では『今昔物語集』などがある。こうした作品により、武士や庶民へも歴史認識が広く流布することとなった。

中世
鎌倉時代以降の武家台頭に対し、危機感を募らせていた公家層を代表して、新たな歴史認識を示したのは慈円の『愚管抄』である。慈円は末法思想と「道理」をテーマとして国初以来の歴史を説き起こし、武家が大きな政治権力を握ったことを「道理」観念で合理的に理解しようとしており、同書をもって初めて歴史認識が明確に示されたとする見解もある。中世には仏教的な歴史意識が広まったが、それに対抗して神官の間では『日本書紀』神話の講読が盛行し、神道の立場を中心として神話と歴史を結合させる思想が起こった。これを背景として、中世中期には、北畠親房により神道的な神国思想をテーマとする『神皇正統記』が著された。また、中世のもう一つの歴史認識は、年中行事や有職故実などの儀礼を通じて歴史を考えるというもので、そのため、故実を伝えるための日記や各種記録文書が多数作成された。その影響で、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』も日記体をとっている。

近世
近世(江戸時代)に入ると、将軍家や大名家は権力を正当化するため、儒教思想を積極的に採用し、歴史の編纂を通じて自らの正当性を主張した。代表的なものに『武徳大成記』『本朝通鑑』『大日本史』などがある。儒教は本来合理的な思考を有しており、儒教思想の興隆は合理主義的な歴史叙述、例えば新井白石の『読史余論』『古史通』などとして結実した。これらの動きは実証的な歴史研究、すなわち18世紀の荻生徂徠や伊藤東涯らによる政治制度史研究へとつながっていき、あわせて国学へも大きな影響を与えた。近世期の合理的・実証的歴史認識の一つの到達点が富永仲基である。仲基は、仏教・儒教・神道といった宗教・思想も歴史的に変化してきたのであり、これらを絶対視するのでなく客観的に捉えるべきことを唱えている。こうした状況は、日本の歴史研究が近代的な歴史学を受容するための十分な素地を既に生んでいたと評価されている。一方、江戸後期には幕藩体制の矛盾と対外緊張の高まりの中、庶民の間でも歴史への関心が広がり、『日本外史』『皇朝史略』など通俗的な歴史書が多く出版された。

近代
幕末から明治維新にかけて、文明史など西欧の近代歴史学が一気に流入したが、特に進歩史観・進化史観が日本で急速に広まった。これは従来の日本にない新しい歴史観であり、歴史の中に普遍的な法則性を見出そうとする歴史観であった。この影響のもと、在野において書かれたのが田口卯吉『日本開化小史』や福澤諭吉『文明論之概略』などである。これは日本史と西欧史の共通点を強調する方向へ進み、脱亜論と結びついていった。

一方、明治政府の立場からは、天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史叙述が構築されていった。それは大政奉還・王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新・建武の新政・明治維新が最も重要な改革に位置づけられ、こうした国家主義的な歴史観はとりわけ歴史教育の現場へ積極的に導入されていった。これは前代の国学や尊王思想を背景とするもので、根底には『日本書紀』以来続いてきた日本の歴史の独自性を強調する考えが流れていた。このように、明治以降の歴史認識・歴史叙述には、2つの潮流 - 歴史に普遍性を見出す方向と日本の歴史の独自性を強調する方向 - を見出しうるのである。

明治20年に実証主義史学の祖ランケの弟子に当たるルードビヒ・リースが帝国大学に招聘された。リースは厳密な実証史学を指導し、いわゆる官学アカデミズムが形成されたが、史料考証を重んじすぎるという憾みがあった。明治末期には、ドイツ歴史学派の影響による発展段階説が唱えられ、またマルクス主義による唯物史観が紹介された。大正期に入ると、マルクス唯物史観が重んじる歴史法則性を強く否定視する歴史理論(カントやディルタイ)が紹介され、歴史哲学への関心を高める契機となった。この時期は社会経済史・文化史・思想史など幅広い分野に関心が拡がっていた。こうした歴史学の発展の一方で、歴史学と国家主義的な歴史観との衝突も発生していた(「神道は祭天の古俗」事件、南北朝正閏論争、天皇機関説事件など)。歴史学が実証主義を重視しすぎ、歴史認識や史学方法論を軽んじたことも国家主義的な歴史観の台頭を許す一因となり、昭和期に入ると国粋主義的な天皇を中心とする歴史観(皇国史観)や勧善懲悪史観が隆盛するに至った。

2009年01月22日

戦時に適用される国際法(jus in bello)の総称

「武力紛争法」とは、戦時に適用される国際法(jus in bello)の総称であり、武力行使の発動に関する法(jus ad bellum)と対比をなすものである。その本質は、戦時における個人の保護にあるといえる。従来より「戦時国際法」とも呼ばれていたが、現代的には「国際人道法」(International Humanitarian Law; Droit international humanitaire)と称されることもある。しかし、武力紛争法の一部である「中立法」は、国際人道法から除かれる。また、国際人道法は、今日、その適用範囲を拡大し、戦時における非交戦の個人の保護のみならず、平時における非人道的行為から個人を保護することまでも含み、「国際人権法」の領域と重なるようになっている(「国際刑事裁判所規程」参照)。「国際刑事法」(International Criminal Law; Droit international pénal)は、重大な国際人道法の違反行為を処罰する法として存在するが、さらにハイジャックや海賊、テロ行為の処罰までも射程に入れており、その適用範囲は広い。

武力紛争法には、二つの法があるとされる。「ハーグ法」(Hague Law; Droit de la Haye)及び「ジュネーブ法」(Geneva Law; Droit de Genève)である(1996年「核兵器の威嚇または使用の合法性」国際司法裁判所勧告的意見、I.C.J.Reports 1996, Vol.I, p.256, para.75)。

「ハーグ法」とは、主として、1868年の「サンクト・ペテルスブルグ宣言」や、1899年から1907年にオランダのハーグにおいて慣習を法典化した国際条約、すなわち、「開戦に関する条約」、「陸戦の法規慣例に関する条約」(これに付属する「陸戦の法規慣例に関する規則」)、「陸戦の場合に於ける中立国及び中立人の権利義務に関する条約」、「海戦の場合に於ける中立国及び中立人の権利義務に関する条約」など一連のものを指す。それらの目的は、交戦国・交戦員の軍事作戦の行動の際の権利と義務を定め、国際武力紛争において敵を害する方法と手段を制約することにある。

「ジュネーブ法」とは、「ジュネーヴ諸条約 (1949年)」及びそれに付属する「ジュネーヴ諸条約の追加議定書 (1977年)」(「第一追加議定書」、「第二追加議定書」)及び2005年の「第三追加議定書」で定められた規則の総体で、戦争犠牲者を保護し、戦闘不能になった要員や敵対行為に参加していない個人の保護を目的とするものである。
フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

武力紛争法においては、締約国は、たとえ条約によって規定されていない場合においても、市民及び交戦団体が「文明国間で確立した慣例、人道の法、公の良心の要求」([les] usages établis entre nations civilisées, [les] lois d'humanité et [les] exigences de la conscience publique)に由来する国際法の諸原則の下にありかつ保護下にあることを確認するという(前掲「陸戦の法規慣例に関する条約」前文ほか)、いわゆる「マルテンス条項」(Martens Clause; la Clause de Martens)が大変、重要である。

ジュネーブ諸条約は、その遵守を確保するために、「重大な違反行為」(les violations graves)の処罰のための国内法(普遍主義)の整備を締約国に義務づけている。これに基づき、各国は、国際人道法違反行為を処罰する国内法を置き、近年、旧ユーゴスラビア紛争やルワンダでのジェノサイドに関する訴追が行われている。最近では、「1993/1999年ベルギー法」、いわゆる「ベルギー人道法」が注目されていた(2003年に独立した法律としては廃止し、刑法典、刑事訴訟法典に挿入)。我が国でも、2004年に、普遍主義を規定した「国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律」(平成16年法律第122号)が制定された。国際裁判所としては、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)が国連安保理の決議によって設置され、上記二つの事件に関してそれぞれ活動している。普遍的なものとしては、1998年に初めて常設の国際的な刑事裁判所である「国際刑事裁判所」(ICC)のための「ローマ規程」が成立し、2003年に同裁判所が設置され、現在、コンゴの事件などで活動中である。

2009年01月15日

パリへ留学し、ヒステリーの研究で有名

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1885年(29歳)、パリへ留学し、ヒステリーの研究で有名だった神経学者ジャン=マルタン・シャルコー(Charcot,J.M.)のもとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学んだ。このころの彼の治療観は、のちの精神分析による根治よりも、むしろ一時的に症状を取り除くことに向かっていた。この治療観が、のちの除反応(独: Abreaktion)という方法論につながっていく。

精神分析の創始
1886年(30歳)、ウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析(独: Psychoanalyse)と名づけた。

1895年(39歳)、フロイトは、ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。今日で言う心的外傷やPTSDの概念に通じるものである。[2]
これに基づいて彼は、ヒステリー患者が無意識に封印した内容を、身体症状として表出するのではなく、回想し言語化して表出することができれば、症状は消失する(除反応 独: Abreaktion)という治療法にたどりついた。これは当時隆盛になりつつあった物理学の「エネルギー保存の法則」をも参考にしている。

この治療法はお話し療法と呼ばれた。今日の精神医学におけるナラティブセラピーの原型と考えることができる。

自然科学者として、彼の目指す精神分析はあくまでも「科学」であった。彼の理論の背景には、ヘルムホルツに代表される機械論的な生理学、唯物論的な科学観があった。脳神経の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できると彼は信じていた。しかし、彼は脳神経に考察を限っていたわけでもなかった。当時の脳細胞の研究は一段落ついており、かわって心理学や、当時の流行病であり謎でもあったヒステリーの解明が新たな挑戦課題となっていた。彼はその挑戦とともに、ヒステリーの解明の鍵であった「性」という領域に、乗り出していったのだった。[3]彼はギムナジウム時代に受けた啓蒙的な教育からして、終生無神論者であり、宗教もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、そのため後年にユングをはじめ多くの弟子たちと袂を分かつことにもなった。

やがて彼の関心は心的外傷から無意識そのものへと移り、精神分析は無意識に関する科学として方向付けられた。そして、自我・イド・超自我からなる構造論と神経症論が確立した。

自身がアシュケナジーであったためか、弟子もそのほとんどがアシュケナジーであった。また当時、アシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ[4]。彼は臨床経験と自己分析を通じて洞察を深めていった。『夢判断』を含む多くの著作はこの期間に書かれていった。フロイトは日中の大部分を患者の治療と思索にあて、決まった時間に家族で食事をとり、夜は論文の編纂にいそしんだ。夏休みは家族とともに旅行を楽しんだという。

ユングとの出会いと訣別
アーリア人ゲルマン人で代々ルター派牧師の家系出身であり、かつ永世中立国スイスのドイツ語圏に属するチューリッヒ大学講師カール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ、ユングも初めはフロイトを深く敬愛した。
フロイトの著作『夢判断』は、はじめ読者が限られていたものの、ユングがこれに目を通し、フロイトの主張を支持することを決意したという。

1910年『国際精神分析学会』創立時、フロイトはユングを初代会長に就任させ、個人的にもしばらく蜜月状態ともいうべき時期が続いたが、無意識の範囲など学問的な見解の違いから両者はしだいに距離を置くようになり、1912年には訣別(フロイト56歳、ユング37歳)し、1914年にはユングは国際精神分析学会を脱退した。

晩年
フロイトは第一時世界大戦後、多数の患者を診ることになった。

1923年(67歳)、喫煙が原因とみられる白板症(ロイコプラキア)を発症、以後死に至るまで口蓋と顎の癌手術を33回も受ける。16年間に及ぶ闘病生活にもかかわらず、強靭な精神力から著述、学会、患者治療に超人的活動を続けた。

1938年(82歳)、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがアシュケナジーを学会から追放した時、ユングは自身が会長を務める『国際心理療法医学会』の会員としてドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証すること、学会の機関紙にアシュケナジーの論文を自由に掲載することの2点を決定し、フロイトに打診した。だが、フロイトは「敵の恩義に与ることは出来ない」と言って援助を拒否、この為、アシュケナジーの医師たちは仕事を失い、強制収容所のガス室に送られ亡くなった。フロイト自身はロンドンに亡命したが、この亡命に関しては、弟子たちがしきりに勧めていたものの、フロイト本人は最後まで逃亡に反対していたという証言がある。

1939年(83歳)、末期ガンに冒されたフロイトはモルヒネによる安楽死を選択し、ロンドンで生涯を終えた。最後の日々を過ごした家は、現在、フロイト博物館になっている。

フロイト自身の子供たちのなかで、アンナ・フロイトが父の仕事を引き継ぎ、児童心理学の世界で活躍し、これが晩年のかれの慰めのひとつになった。

子孫の系譜
孫:ルシアン・フロイド
画家
孫:クレメント・フロイド
著述家・ブロードキャスター・政治家
曾孫:エマ・フロイド
ジャーナリスト
曾孫:ベラ・フロイド
ファッションデザイナー
曾孫:マシュー・フロイド
メディア王で、ルパート・マードックの娘と結婚。また甥のエドワード・バーネイズは広告産業の生みの親の一人である。

理論

心理的=性的発達段階
口唇期
肛門期
尿道期
男根期(エディプス期)
潜伏期
性器期

主な著作
邦題は訳者によって異なる場合がある。( )内はドイツ語の原題。なお、英語訳のリストについてはFreud's Bibliographyを参照のこと。

『ヒステリー研究』(Studien über Hysterie)ヨーゼフ・ブロイアーとの共著, 1895年
『フリースへの書簡集』1887-1904年(With Robert Fliess: "The Complete Letters of Sigmund Freud to Wilhelm Fliess",Belknap Press, 1986)
『夢判断』(Die Traumdeutung)1899年(出版1900年)
『日常の精神病理学』(Zur Psychopathologie des Alltagslebens),1901年
『性理論に関する三つのエッセイ』(Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie),1905年
『ジョークと無意識との関連』 (Der Witz und seine Beziehung zum Unbewußten),1905年
『トーテムとタブー』(Totem und Tabu),1913年
『ナルシシズム論』(Zur Einführung des Narzißmus),1914年
『快楽原則の彼岸 / 快原理の彼岸』(Jenseits des Lustprinzips),1920年
『自我とエス』(Das Ich und das Es),1923年
『錯覚の未来』(Die Zukunft einer Illusion),1927年
『文明への不満』(Das Unbehagen in der Kultur),1930年
『モーゼと一神教』(Der Mann Moses und die monotheistische Religion),1939年
『精神分析入門』(Abriß der Psychoanalyse),1940年
『系統発生的幻想 - 転移神経症概観』(1983年発見の手稿)
ハーヴァード大学による出版案内